久慈誓という男(Reprise)

私の推しが作中で命を落としてから一年が経った。地獄のように長かった気がするし、あっという間だった気もする。この一年間、実生活では転職したりなんだりとバタバタしていたけれど、オタクとしての私の時間はずっと止まったままだ。もちろん新しい推しやCPにはハマった。ハマろうとした。でも長続きしなかった。推しのことは大好きなのに、どこか無理をしている自分がいた。ツイッターでは呪詛ばかりだった以前のアカウントを消して転生してみたけれど、脳から直接溢れ出すパッションを叩きつけるようにツイートしていたあの頃の熱量はもう戻ってこない。ただ穏やかにどうぶつと無人島生活を楽しむ退役軍人のような日々を送っている。当時一緒に狂っていた久慈のオタクたちはどうしているだろうか。今でも交流のあるフォロワーたち(本当に感謝)には、普段は現ジャンルの話を楽しそうにしていても突然久慈のことを思い出して発狂しだす様子が散見される。というか主に私がそうである。
 
もう、久慈誓ほど好きになれる男はいないのかもしれない。彼が退場した時点で私のオタク人生も終わったのかもしれない。推しカプもない、かといって夢女にもなりきれない。私は一体何者なのだろうか。
 
「先のことはわからねえ。それが人生ってヤツだ。だからこそ人は自分の過去に決着をつけたがる。そいつがオレたちに与えられた特権であり、使命なのさ」と、私の生涯の推しは言う。私も決着をつけたい。でもできないから、旅行先の景色や美味しいご飯をバックに彼のアクリルキーホルダーと写真を撮りまくってごっこ遊びに興じたり、好きなどうぶつに彼のデザインの服を着せて喜んだりしている。虚しい。そんなことを続けていたってアニメ本編を見返せる日は来ない。小説下巻を読める日は来ない。
 
私の愛した男はいつもそうだ。自分の大切なものを守りきって、どこか達観したような表情で物語から退場していく。残されたオタクは、彼は幸せだったのだろうか、彼のいなくなった世界は彼を大切にし続けてくれるのだろうか、なんて不毛なことをぐるぐると考えながら彼のいない現実を生きていく。
 
そもそも、存在しない男に対して感情移入しすぎなのである。もっと気軽に生きたい。「推しがカッコいい♡」の感情だけで幸せになりたい。昔はそれができていたけれど、大人になるにつれて余計な事を考えすぎるようになった。私がどれだけ彼を賛美したところで、彼が幸せな世界じゃなければ意味がない。
ソシャゲ廃人だった頃は良かった。同じ時の流れの中で、推しが常にそこにいる。どれだけ重い過去を背負っていても、どんな衝撃の事実が明らかになっても、ホーム画面でキラキラと微笑んでいる彼が”今”だから。忙しくてログインできてないソシャゲ、復帰しようかな。ジャンル自体がソシャゲ化していつでも公式の推しを浴びられるようになったら全て解決するのかもしれない。
 
つまり私が欲しいのは”今”なのだ。過去に囚われている限り、私は一生苦しみ続ける。大好きな推しのことを考えたいのに、考えるだけで苦しくなる。物語は彼のいない世界で完結しているから。こんな重い性格のクセに原作厨の解釈厨だから、自分の都合のいい世界を創り出すこともできない。行き場のない気持ちをこうして吐き出すしかない。
 
はーあ。もうオタクやめたい。
そう思いながら、今日も私は実はそんなに好きじゃない蕎麦を食べ、久慈誓のアクリルキーホルダーと写真を撮る。やめられないんだろうなあ、オタク。